学生時代に阪神大震災を経験して、
神戸の被災地にボランティアで入りました。
そこでいろいろなものを見て、
早く社会に出たいと思い、、
就職活動を始めて、、、
就職超氷河期と言われていた時代に入った会社を
たった1年1か月で辞めまして、、、
辞めた当初頭にあったのは、
日本を離れて暮らすこと。
旅行ではなくて、生活をすること。
仕事をして、家賃を払って、税金を納めて、
ってのを、海外でやってみたかったんです。
そのための準備を始めました。
①通関士の資格を取りました。
②スキューバダイビングのダイブマスターという資格を取りました。(インストラクターの手前)
③リフレやもみほぐしなどリラクゼーションの手技を習いました。
これだけ身につければ、
飢え死にすることはないだろうと。
今の仕事の元になるのは、
③のリフレやもみほぐしですね。
当時大阪では、クイックマッサージというのが流行っていまして、
サラリーマンやOLさんなどに15分1500円とかでサービスを提供するお店が乱立していました。
手技を学べるというので、オープニングスタッフを募集している大阪本町にあるお店に面接に行ったのですが、
宝飾店での経験を買われて、いきなり契約社員として、
店長兼3店舗統括サブマネージャーという堅苦しいポジションをいただいてしまいました。。
ここでは、会社側とアルバイト・スタッフの間で板挟みになるという経験を味わいました。
が、施術経験の長いベテランスタッフさんにはかわいがっていただいて、
毎日のように手作りのゴーヤジュースをご馳走になっていました。
ベテランさんに手技を教えてもらえたのがほんとに楽しくて、
マネージャーの仕事のかたわら、よく練習していました。
マネージャー業と、施術業の二足の草鞋をはきながら、
1日16時間とか働いていました。
まだ24歳くらいだったので。。笑
いつの間にか、施術のご指名がNo.1になりまして、、、
ぼくはどんどん施術がしたい、
でも会社側はいやそれは困る、、、
ということで、そこを辞めることになりました。
その後、タイ古式や台湾式リフレ、オイルマッサージ、中国の推拿などの民間資格を取って、
あべのハルカスの近くにあるお店に、
今度こそは施術屋として雇ってもらいました。
そこでは、休憩もなしで、まるで機械のように施術していました。
今はもうそんなことできませんけど、当時は楽しかったです。
お金も少し貯まったので、メキシコに渡ることにしました。
26歳のときでした。
ちなみに、当時の施術仲間とは、今でも連絡を取りあう中です。
ありがたいことです。
僕にとっての施術は、
レールを敷くための礎なんですよね。
そのおかげで、メキシコでの12年間、
無事に生き延びることができました。
この12年間は、
言うまでもなく、僕にとってかけがえのない経験になりました。
知り合いもいない、
言葉もよーわからんところで、
0から自分の世界を構築する、
最高のゲームでした。
ちなみに、、
①の通関士も日系企業の現地採用スタッフとして働いていた時に役立ちました。
②今はすっかりペーパーダイバーです。。シュノーケルでも楽しいし、、山の方が好きやし。。笑
そして礎としての施術ですが、
今後さらなるコロナ騒ぎで施術させていただくクライアント様がいなくなったら、
これまでの延長線上にレールを敷くことができなくなります。
レールの方向性を変えるのか、
礎自体を他のものに変えるのか、、
多くの人が、そのようなことに向き合っていいるのかもしれませんね。